2016/09/23

020☆(部屋、虫アミ、燃える記憶)<アクション>

 


 血が欲しくてたまらない。


 ストリートの路地裏で、俺は拳が満足する場所を探している。これはもはや本能だ。幸か不幸か、俺は今、人間として生きている。あの大嫌いだった人間として、だ。人間になったのにも関わらず、俺は人間からも忌み嫌われている。どうせ忌み嫌われるのであれば、吸血鬼として生まれ変わればな、と思う。さすれば、拳を振るうだけでなく、人間の血を吸うこともできように。


 


 あれは六月のことだ。湿った空気の雨の日だった。こうも空気が湿っていては、外はどうにも飛びづらい。俺は窓からある民家に入り込んだ。獲物はいない。まあ、昼間であるからして、出かけているのだろう。獲物がいなくては始まらない。かといって、外へ出るのも面倒だ。俺はその家で獲物が現れるのを待つことにした。
 その間に、家の構造を把握しておく。どうやら一階建てで部屋は三つ。台所が一つ。風呂場が一つ。あとは玄関である。もっとも重要な事として、窓は三つ。各部屋に一つずつである。どこからでも脱出できるよう、シミュレーションを繰り返す。何度繰り返しても、体力とのバランスさえ間違えなければ慎重すぎるということはない。それが生死を分けるのだから。
 玄関から音がした。俺は身構え、天井で待機する。女。入ってきたのは女である。うら若い女。蒸し暑いためか、腕の露出した服を着ている。脚はというと、足首まで布で覆われている。下は狙えそうにない。女は鞄を床に降ろし、部屋の一つへ入っていった。俺は距離を保ったまま追いかける。女が上着を脱いだ。タンクトップが現れる。肩から二の腕にかけての、肌理きめ細やかな純白の肌が俺を誘う。
 しめた。
 肌の露出した部分が増えれば増えるほど、俺は事を有利に運ぶ事ができる。俺は狙いを定める。上だ。上。ほっそりとしたうなじから、肩甲骨に向けての大地。肩、脇から、胸の膨らみにかけてのライン。いずれにしろ、狙いをつけて、一気に決める。
 女が台所に行き、冷蔵庫を開けた。麦茶を取り出し、食器かごからコップを取り麦茶を注ぐ。冷蔵庫を閉め女が部屋に戻るのとともに、俺は女の背後に忍び寄った。
 女が椅子に腰掛け、コップを左手側に置く。パソコンのスイッチを入れた。俺はといえば、目の前の誘惑に必死に抗っている。肌。純白の肌。肩甲骨が美しい。こうして目の前で実際に触れると、本能でもういいんじゃあないか、と思ってしまう。この滑らかな純白に、俺の痕跡を残したくてたまらない。
 だが、俺は耐えた。耐えることが欲望を刺激し、満足を増幅させる。もう狙いは定めている。脇から胸にかけての、ワンスポット。あそこを狙う。俺はそのタイミングを探るため、名残惜しいながらも肩甲骨から移動する。
 俺はその時を待つ。女は左手側に麦茶を置いている。すなわち、コップを掴む際には左手を用いる。必然、腋窩に新たな地平線が広がる。さらにコップに口をつけ麦茶を飲むとなれば、隙も大きい。そこで俺はたっぷりと、この体を十二分に満たすことを目指す。想像するだけで、体が熱を持つかのようだ。
 女が左手を動かした。今だ!
 俺は一度飛び上がる。女がコップを手にする。俺は急降下し、二の腕の下へ潜行する。女がコップを口に付けると、ほの暗い陰影に映える滑らかな腋が姿を晒した。
 俺は一直線に腋へと進もうとした。一本たりと毛の無い、その腋へと進もうとした。
 だが、迷いが生じてしまう。


 誤算だった。


 タンクトップ。そう、タンクトップだ。
 俺の視界には、姿を現した腋と、わずかに動く胸の肉が写ってしまった。俺の思考に余計なノイズが入る。腋よりも、あのふくよかに俺を誘う胸の方が美味しいんじゃあないか。
 時間が無い。俺は目標を変える。
 ここまで一瞬の刹那の思考ではあったが、どんなに短い時間でも、その分だけ満足感とトレードオフである。俺は速度を増して、谷よりも純白の山の麓を目指した。
 着地。俺の痕跡を残す。南極点に旗を立てるかのように。そして俺は作業に移る。
 至福。恍惚、満足。いくらでも味わっていたい。
 まただ、これが天敵なのだ。一度、このような格別を味わうと、ずっとその場に留まって痛くなる。常に己の欲望と戦わねばならない。
 背後に動きを感じた。どうやら女がコップを机に戻したようだ。もう終わりか!
名残おしいが、俺はその場を離れ、肩甲骨へと回る。
 女が右手で、左胸の近くを掻いている。俺が吸った場所だ。これだ。俺は食後のこの行為を見るたびに、恍惚に浸れる。そうだ、俺が痕跡を残したのだ。
 そして俺は、この家からの脱出を考える。まずは安全の確保だ。天井へと向かう。
 女は気づいていない。今ならすぐに脱出できるだろう。窓の向こうも、小雨になっているようだった。


 しかし、あれは誤算だった。あそこで腋窩か胸か迷わなければ、まだ味わうことができただろう……


 女を見ると、左手をまっすぐ上に上げている。腋窩から胸にかけてを覗き込むようにしている。
 必然、女の胸の、あのふくらみが、また俺の視界に入る。


 ……小雨とはいえ、まだ雨が降っている。


 俺はもう少しだけ、その家に居座ることにした。


 


 いつの間にか、夜になっていた。
 女が風呂に入り、しばらくして、床につくようだ。
 俺はずっと考えていた。昼間から、それだけ頭が一杯だった。寝てしまえば、予想できない動きは増すものの、別の楽しみ方が増える。布団の中に潜り込み、さらには寝間着の袖から入り、あの山のもっと深い場所に痕跡を残そう‐‐
 女が電気を消した。
 俺はこれからのことを考えると、おかしくなってしまいそうだった。
 しかし、女は再び電気をつけ、何かと動き回っている。
 何だ、何をしている、早く眠りに就け。俺は気が火照っていた。


 女は、あれに火をつけた。
 そして電気を消し、床に就いた。


 やめろ……!


 完全に誤算だった。想像を増す欲望に、抗いがたい本能が勝る。俺はその本能に引き寄せられてしまう。
 冗談じゃあない……!
 それは蚊取り線香であった。
 虫アミよりも蚊帳が嫌いで、蚊帳よりも蚊取り線香が俺は嫌いだ。


 欲望が身を滅ぼす……!


 完全なる誤算だった。俺は自らの欲望を早く満たさんとはやる気持ちのため、女に近づきすぎていた。普段であれば、蚊取り線香などという兵器に近づきすぎることはないように俺は振舞う。そうやって生き延びてきた。今回は欲望のため、注意を怠っていた。まさか、こんなうら若い一人暮らしの女が蚊取り線香などという古風な物を保有していようとは……!


 熱源が近くなる。
 嫌だ、冗談じゃない……!


 しかし、本能は欲望に勝る。欲望の想像も、昼間の記憶も、その熱源に近づき、燃やされる。


 俺は因果を思い出す。昼間、迷ったのがこの状況を招いたのだ。腋窩か、胸か。あの一瞬の逡巡が、満たされない気持ちを起こし、この家に止まらせた。小雨だから、など言い訳に過ぎない。俺は欲望に負けたのだ……!


 体が燃える、昼間の記憶も燃える。やがて、俺は意識を失った。


 


 


 目を覚ました時、俺は路地裏に倒れていた。どういう訳か、俺はヒトの姿になっていた。男。俺はヒトの男になっていた。立ち上がり、路地裏をさまよった。弱々しく見えたのであろう、俺は幾度となく、柄の悪そうな男達に絡まれた。
しかし、俺は苛ついていた。こうして転生したのちも、頭にこびりついているのは最後の欲望である。あの女の血を吸い損ねたという記憶。己の欲望に負けたという憤慨。怒りのはけぐちはいくらあっても足りなかった。
絡んできた男達は事あるごとに殴りかかってきたが、俺の感想は一つだった。
遅い。遅過ぎる。
 拳を躱かわし、俺の拳を叩き込む。喧嘩を売ってきた者に、俺の痕跡を残す。
 死線をくぐってきた数が違うのだ。俺は食事の度に命がけであった。暇つぶしのために絡むような者の拳など、俺には止まって見えるも同然だった。


 俺は「俺が転生したのであろうヒト」の財布から住所を見つけ、どうにか俺の寝床を見つけた。以来、俺は自分が転生した理由を探ってみてもいるが、何より、常に血に飢えている。