2016/09/23

017☆(入学式、虫アミ、家の中の大学)<ギャグコメ>

 


 真夏のこの家の中で、俺と姉ちゃんはカブトムシを探している。
 俺はといえば、階段の横の通路を抜き朝差し足で音を立てないように、獲物に狙いを着けていた。
「ッふっ!」
俺の手を交わし、家のどこかへ飛び去っていくカブトムシ。
「何でこんなことに……」
 シャツが汗ばんで気持ち悪い。
 俺は溜息をついた。


 


「よっ、久しぶり」
 姉が帰省したのは、八月一日のことである。関東の大学に通っている姉は、今年の夏も帰省してきた。俺としては、何かと面倒くさいので嬉しくはない。嫌ってほどではないが。
 だが、その気持ちは翌日の二日に失われた。面倒で仕方ない。事件の発端は姉の持って帰ってきた荷物である。「それ」が逃げ出したことが原因だった。
火曜日の午前中、両親はすでに仕事に出かけ、妹は部活へと赴き、俺は夏休みの惰眠を貪っていた時のことである。
「ああっ!」
姉の悲鳴が聞こえた。
 しかし、俺は確認しに行く事も助けに行く事もしない。あいつはそういう奴なのだ。極力関わらない事に限る。俺は気にせず自室のベッドの上でクーラーの涼風と扇風機の二重奏に身を任せていた。
 すると、ドスドスという姉のものであろう足音が聞こえてくる。俺の部屋の前で止まり、ドアをノックする。俺は反応しない。ノックの音が鈍い音に変わる。俺は気にしない。ドアノブがガチャガチャ音を立てる。……俺はまだ気にしない。どんどんどんどんガチャガチャどんどんどどんどんどんガチャメリメリメリメリガチャどん


「うるっせーーよ! なんなんだよ!」
っんっパーーンっという音とともに姉が部屋へ入り込んで来た。
「頼みがある」
「ドア壊してんじゃねえよ!」
「カブトムシが逃げた」
「人の話聞けよ!」
‐‐あ? カブトムシ?
「なによ、カブトムシって」
「カブトムシはカブトムシよ」
「いや、逃げたって」
「そうよ、逃げたんよ」
「どこから」
「私の部屋から」
「どこに」
「家ん中に」
……何を言っているのだろうか。
「何で」
「何が」
「何で逃げたん」
「ふた開けてしもとってん」
「ちゃんと閉めとけや」
「可哀想やろ、あんな狭いとこに閉じ込めとったら」
「部屋ん中で放し飼いにしとったんか」
「まさか。一時間もしたら戻すつもりやったわ」
「ほな何で逃げたんや」
「トイレ行こ思たらその隙にドア開けた隙に逃げたんよ」
「知らんわ、姉ちゃんが悪いんやんけ」
「んな事言わずに手伝ってえや」
「知らんわ、んなもん」
「うち、虫触るんはええけど捕まえるん苦手やねん、あんた昔から虫網使うん上手かったやんか」
そうなのだ。俺は昔から虫とりが上手かった。近所でも三本の指に入るほどだ。うち一人は真田シンダのケンちゃん、もう一人は妹だ。でも今はそんな事はどうでもいい。
「虫網や、この家ん中でふりまわせへんやろ」
あー、と姉が声を漏らす。
「そやな、昔の旅館は天井の高さで刀振りかぶれへんかった言うしな」
「うちん中で虫網は無理やな」
「ほな捕まえよ思たらどうすんがええんよ」
「そら素手やろな」
うへえ、と声のトーンが下がる姉。
「嫌やわ、あたしそんな器用ちゃうわ」
「知らんがな」
「頼むわ、捕まえてーな」
手伝ってから捕まえてに変わってねーか、この女。
「そもそも、なんでカブトムシなんかが姉ちゃんの部屋におったんや」
「大学で扱ったんよ。ほんで、私が持って帰る事になったんや」
「何でや。大学の事や俺よう知らんけど、そんなん研究室で飼っとくもんちゃうんか」
ちゃうちゃう、と首を振る姉。
「授業やのうて、ボランティアや。ボランティアで、大学の近所の子おらと虫捕りしたねんな。ほんで、そこで捕まえたカブトムシ持って帰ってきてしもたんや」
「逃がしゃよかったやろ」
「だって」
と、姉は言葉を溜める。
「かっこええやんか」


 


 知らんがな。


 


 その後も俺と姉の攻防は続いたがハーゲンダッツで手を打った。ハーゲンダッツ。ハーゲンダッツ。真夏の一仕事の後のハーゲンダッツ。悪くない。普段はガリガリ君で済ましている俺にとっては何たるリッチ。しかも二個。
「ほな一階はお願いねー」
俺たちは二手に別れる。姉は二階を探す。俺は一階を冒険する。レッツハント。俺のクエスト、報酬はハーゲンダッツ二個。勇ましく、だが静かに俺は一階を探索する。
 玄関と窓がしっかりと締まっていることを確認してから俺は作戦を開始する。台所、いない。トイレ、いない。ばあちゃんの部屋、いない。死んだじいちゃんの部屋、ひんやりしてる。いない。
 くわわわわと羽の音がする。階段の方からだ。俺の心臓の音がダンスを始めたけど、カブトムシには聞こえまい。
いた。
 俺はターゲットを見つける。階段の下から三段目。こっそりこっそり近く。ほーらほらほら怖くない。右手を伸ばす。
 きゅわわわわわわわんとカブトムシが飛び立って二回へ向かう。何てこった、気づかれちまった。俺は落胆した。後を追って階段を上る。上りきったら通路は一つ、逃げ場はない。袋小路のカブトムシ。
 おや、と俺は首を傾げた。おかしい。おかしな点が二つ。
 カブトムシが見当たらない。これはまあいい。
 姉の姿も見当たらない。これはおかしい。
 あいつはどこを探しているのか。
 姉の部屋の扉をそっと開け、中を覗き見る。
「あ」「あ」姉と目があった。
「何でどうぶつの森なんてやんじょんの」
「いやだってほら、カブトムシ捕まえる練習よ」
「でも姉ちゃん、手にもっとん虫網やなくて釣り竿やん」
テレビの画面の中で、雷雨の中プレイヤーキャラが釣り竿を握っている。
「それはほら、シーラカンス狙いよ」
「二手に別れよう言うたん姉ちゃんやん」
「私は私なりのやり方があるんよ」
何だそれ。
「武蔵流やな」
「相手を焦らすってことか?」
「そうよ。あたしはカブトムシを焦らすんよ」
「無茶苦茶やな」
「そう?」
「ほな俺も真似するわ」と言って、自分の部屋に戻る。
俺はゲームを始めた。
「何しょんの」
姉が部屋に入って来る。
「そらゲームよ」
「カブトムシ探してーや」
「これも作戦の内やで」
ふーん、とこぼす姉。
「僕の夏休みやん」
「せやで」
「これでカブトムシとる練習するんか?」
「そうよ。これでバッチリや」
嘘である。俺はもうカブトムシはどうでもよくなっていた。
「ハーゲンダッツ、三個に増やしてもええで」
俺は返事をしない。木の幹に砂糖水を塗る。


‐‐姉ちゃん、そういやシーラカンス釣れたんか?
‐‐あかんわ、逃げられた。
‐‐ほなもうゲーム切ったん?
‐‐うん。
‐‐なんで、久しぶりにやったら楽しいやろ。
‐‐楽しいは楽しいけど、草ぼーぼーであたしの花壇枯れとってん。
‐‐姉ちゃん花好きやもんな。
‐‐うん。


「階段に砂糖水塗ったらあかんかな」
「大学行って頭おかしなったんか。おかんに怒られるやろ」
「それもそうやなー」
俺の横でaikoを歌う。
「カブトムシや見たん、久しぶりやわ」
「せやろ。珍しいやろ。ほな探してや」
「面倒くさいわ」
姉ちゃん、ちょとパスとコントローラーを渡して俺は一階のトイレに向かう。
部屋の外はうだるように暑い。チャッと用を済ましてザッと手を洗いトットットっと階段を駆け上がる。
「ん」姉からコントローラーを受け取る。


「あ」


「何よ」
「あんたの背中」
 ほれ、と姉はそれをつまんだ。
 その右手には、焦げ茶色のカブトムシ。


 


 ローソン帰りの道すがらで、姉と大学の話をする。
 楽しい? うん。何が楽しいんよ。やっぱ田舎とは違うわ。どんなところが? スーパーが二十四時間空いとる。へえ、でもコンビニやって二十四時間やん。ノンノン、コンビニとスーパーは違うのだよ。一緒やろ。コンビニやと出来合いのもんしか買えんけど、スーパーやったら白菜買えるやん。白菜? うん。何で白菜よ。美味しいやん。せやろか。うん。ふーん。家まで走る? 何で。ハーゲンダッツ溶けそうやん。でも姉ちゃん走るん遅いやろ。確かに。歩こうや。せやな。


 


 俺たちは姉の部屋で、テレビを点けてハーゲンダッツを食べる。結局、俺の報酬は一個になった。やむをえまい。捕まえたのは姉ちゃんだ。二個買って、一個ずつ食べる。
 俺たちの隣では、カブトムシが籠の中で大人しく光っている。


「何、姉ちゃんゲームでもするん」
「うん」
「パワプロやん」
「せやで」
「高校編?」
「ちゃうちゃう」
姉が始めたのは大学野球編だった。
「パワプロってさ」
「うん」
「入学式すぐ終わるよな」
「夏は長いのにな」
「せやな」
「負けるとすぐ終わるけど」
「そうよなー」
よっしゃーオールA目指すでーと姉ちゃんは張り切っている。


 俺は横でそれを見ている。ハーゲンダッツの欠片をカブトムシにちょっとだけ分けてやる。クーラーは涼しい。窓の向こうには入道雲が見えた。