振り分けられた。
四月七日。入学式。
この春、俺は高校に進学した。そして、クラスが振り分けられた。その先まで。
その先まで、というのは卒業後の進路までを意味する。この私立高校のカリキュラムの売りである、「コンパス」による進振りである。入学した際、新入生はまず「コンパス」による分析を受ける。中学生時代までの成績、部活動、家族構成、加えて購買記録までも含むその他諸々のビッグデータから、生徒の適性を見出す。
知能の最適化された分配をうたう、R社開発の人工知能だ。進路に悩まずにすむ、と言えば聞こえはいいが、自分自身の夢や目標と、分析結果によって提示されたコースとの間に隔たりがあることも少なくない。年度数を重ねデータが増えるほどに満足度は向上しているが、外れ値は存在する。そして納得できなかった者たちは、「コンパス」を揶揄してこう呼んだ。死神、と。
そして、俺もその一人になってしまった。
この高校では、ふんだんに資金が注ぎ込まれ、最新の設備が整っている。授業にしろ、部活動にしろ、最高クラスの環境と言っていい。というのも、効率化された資金分配と、最適化された人材の確保と選択、そして集中がそれらを可能にしていた。
この環境下で、俺は美術を学びたかった。なおかつ、俺にはその資格があると思い込んでいた。
だが、「コンパス」が下した結果は、美術ではなく、経済の適正だった。
冗談じゃない。俺は目を疑った。適正により、俺の時間割からは美術の授業は削除され、経済を中心としたカリキュラムが組まれる。それはもうどうしようもないほどに決定事項だった。
そんなはずはない、と俺は抵抗した。
しかし、そんなものは甘い考えだったことを知る。
美術に適性がある者の、絵を、見てしまった。同い年とはおもえない絵だった。
自宅に帰り、十年は愛用してきた筆をとる。パレットに絵の具を広げ、キャンパスに向かう。
描く。描いては上塗りし、描き続ける。
出来上がったものを見て、絶対的な溝を知る。
俺にはわからない。この差が埋められるものなのかどうか、確証が持てない。
確証なんか、持てるわけがない。
それでも、筆を置くことはできそうにない。キャンパスに向かい合うことできない。
絵には嫌われているのかもしれない。俺の片思いで終わってしまうのかもしれない。
経済にしか適性がなくとも、それでも筆を置きたくはない。
その日から、俺は「死神」を超える方法を模索し始めたのだった。