2016/09/23

012☆(砂、迷信、嫌な可能性)<童話>

 


『行商のロレンス』


 


 砂漠を旅する時には気をつけなさい。あなたの背後から過去がやって来る。


 


 私の村では、十六歳になる歳の夏至に聞かされる話がある。十六を超えると成人として扱われ、一人でも村を出ることが可能になる。それまでは、父に連れられて都への行商に何度かついていくことがあっただけだ。危険だからだと思っていたのだが、どうも違うらしい。危険の指す意味が、私と話される内容とで異なっていたのだ。
「砂漠では、決まった道のりから外れてはいけない。迷うからではない。道から外れることは、人生から外れることを意味する」
 長老の言葉だ。曰く、ルートは行き先までに迷わないためや最短距離のためではなく、安全を期してそのルートが取られているのだ、と。もし道から外れてしまった際は、決して振り返ってはいけないし、立ち止まってもいけない。そうすれば、いずれ道に戻れるだろうと。


 


 そして、私はその掟を破ってしまう。あれは十八の夜の事だ。私が一人で夜の砂漠を渡っていた時のことである。
 月明かりが辺りをサファイアブルーに照らす晩、私は村への帰りを急いでいた。都へ行商へ赴いて帰る道すがらのことである。本来、その道のりは地図上では直線距離にして半刻もないのだが、「決められたルート」では大きく迂回、さらに蛇行し、四倍以上時間のかかるものだった。私はその日の稼ぎが予想していたよりも多く慢心していた。何より、生まれて間もない我が子に早くあいたかったのだ。
 私は掟を破り、砂漠を都から村へ直進するルートをとった。暫くは「決められたルート」通りに進んだ所で、その、道程から外れるポイントがある。僅かばかり逡巡したものの、私は一歩を踏み出した。
 幸い、今宵は満月である。月の祝福が得られんことを祈りながら。


 


 村まであと半分を切った頃であろうか。私は異変を感じた。砂漠そのものは普段と変わらないのであるが、何かがおかしい。そして、私は違和感の正体に気づいた。


 


 背後から、風音に雑じって声が聞こえてくる。私は今日は一人で行商に赴いたのだ。はるか遠くの隊商の話し声を、風が運んできているのだろうか。
 しかし、その声はだんだん近づいてくるのであった。私が歩くよりも速く、その音は近付いてくる。私は思わず振り返った。


 


 そこには、影があった。月明かりに照らされた、私の影だけがそこにはあった。


 


 人影はどこにも見えない。辺りを見渡しても、地平線がどこまでも見渡せるばかりで、時折舞い上がる砂埃の他は、動くものなど何もなかった。頭上を見れば、月が煌々と砂漠を照らしていた。私は再び歩き出した。しかし、また声が聞こえてくるのである。私は再び振り返る。


 


 そこには、影があった。私と同じ背丈ほどで、立ち上がりこちらを見つめている影があったのである。月明かりに照らされて生じた私の影は、まっすぐに立ち上がりこちらを見つめているように見えた。私は影を見つめたまま、左足を一歩引いた。すると、影は右足を一歩前へ出す。
私は踵を返し、村に向かって歩き続けた。再び声が聞こえてくる。それらは、聞き覚えがあるものであった。
ガッサンとの喧嘩、アーレフの説教、ジャティビヤとの別れ、父との死別、サマルとの語らい、そしてカディージャの産声‐‐


 


 突如、膝が折れてしまいそうになる。その場で蹲ってしまいそうになるが、なんとか踏みとどまり、前へと進む。声はより大きくなり、影は私の耳元でより強く囁くようになった。私は堪えるのに必死であった。、
だが、やがてその声もおさまった。影は私を追い越し、数歩先を歩くようになる。私が立ち止まると、影も立ち止まった。そして、手を振って、こっちだ、と合図のようなものをする。私は影についていくことにした。
いつの間にか、私は村の端に立っていた。はっとして振り返ってみても、そこに立ち上がった影は居ない。自分の足元にはしっかりと影があり、私から背後へ、砂漠へと伸びていた。空を見ると、南天から少し傾いた月が、静かに私を照らしていた。


 


 翌朝、長老に昨夜の出来事を話した。掟を破ったことを咎められるのではないかと思ったが、長老は私を罰することなく、むしろ柔和な表情で語りかけた。
「それは過去じゃ、お主の過去じゃよ」と長老は言う。
「砂漠で道を外れるとな、過去がそなたを追いかけて来る。恐怖じゃ、道を外れる恐怖じゃよ。その恐怖が、過去を呼び覚ます。文字通り、過去が追いかけて来るんじゃ。人はそこで立ち止まってしまいそうになるが‐‐」
 事実、立ち止まってしまい過去に囚われ、帰って来なくなる者もおるが、と長老は続ける。そして、広大な砂漠の地平線の彼方を見つめながら言った。
「それでも前へ進むんじゃ、過去と向き合い、過去を認め、過去を背負って、時に過去に導かれながら、それでも人は前へと進むんじゃよ、ロレンス」
 長老はそう言った。


 


 長老の見つめる先を、私も長老とともに見つめた。そこには、どこまでも続く砂漠があった。


 


 この村には、長老がいる。サマルもいる。父が生まれ、死んだ場所であり、そしてカディージャもいるのだ。私は再び、都へ行商に行くことだろう。


 


 私は明日も、この砂漠を越えていく。